寄稿 生粋のフィールドワーカーが3Dデジタル標本をつくるということ

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DAPCON 2023 デジタルアーカイブ産業賞受賞に際し、ユング心理学に詳しい知人から「3Dデジタル生物標本」についての社会的意義について、寄稿いただきました。ここに掲載いたします。

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この度、当法人の理事である鹿野雄一氏が、DAPCON2023年デジタルアーカイブ産業賞を受賞した。これは、デジタルアーカイブ産業振興に寄与した活動へ毎年贈られるものだ。鹿野氏は2022年8月、フォトグラメトリの手法をもちいて、水生生物を中心に1400点にもおよぶ3Dデジタル標本を公開・発表している。これまでほとんど誰も取り組まなかった生物標本の3D化を、たった2年ほどの期間にひとりでこれほどの点数を作製したことには驚かされるけれど、もうひとつ忘れてはならないのは、鹿野氏が生粋のフィールドワーカーだという事実だろう。世界に先駆けたデジタル技術の開発というと、IT畑の技術者の手によるものだとなんとなく想像してしまう。だけれども、鹿野氏はこれまで日本各地や東南アジアを中心に、川や森林・崖といったフィールドで研究をおこなってきた、なかなかにいかつい現場人だ。そんな骨太のフィールドワーカーとでもいうべき人物が、デジタルの世界に接近して3D標本を作製しているという事実は、ちょっとしたおどろきとともに、好奇心をかきたてられる。現場を愛し、自然に没入して研究をおこなう研究者といえば、デジタルではなく、生物の〝ホンモノ性″みたいなものを重視するような気がするからかもしれない。けれど、鹿野氏は自然を愛し、生物を愛し、そして、デジタル標本を作製した。実は、彼がまぎれもないフィールドワーカーであるという事実は、あんがい重要なテーマを内包しているような気がする。

ちょっと話がかわるのだけれど、東京大学元教授の石田英敬氏が、『大人のためのメディア論講義』という本のなかで、興味深い話をしている。石田氏は精神分析医ジグムント・フロイトの小論をとりあげ、現代では「お絵描きボード」として親しまれているおもちゃと同様のボードを、フロイトが人間のこころのモデルとなる理想的な筆記用具(「不思議なメモ帳」)だと考えていたことを紹介している。表面にはパラフィン紙が重なっていて、付属のペンでボードのうえに書いた絵は、パラフィンをはがすと消える仕組みになっている、あれだ。幼いころ遊んだおぼえのある人も多いだろう。

石田氏がいうには、フロイトがこころのモデルとして考えた「不思議なメモ帳」という装置は、現代でいうスマートフォンやiPad・PCなどのメディア端末と実によく似た構造をしているらしい。さらに、それらメディア端末は、フロイトが指摘した「不思議なメモ帳」よりさらにこころの構造と類似しているという。それらは、「不思議なメモ帳」と同様に、一度入力されたテキストや音声・画像・映像の痕跡が(仮に消去されてしまったとしても)、コンピュータのメモリやサーバのなかにストックされて続けている。表面上消されていても存在する記憶の領域とは、フロイトが発見した無意識というこころの深層に類似している。記録した情報を何度もよびもどすことができる点で、現代のメディア端末は「ふしぎなメモ帳」よりももっとずっと「こころの装置」に近いらしい。つまり、現代社会を生きるわたし達は、フロイトのいう「こころの装置」を持ち歩き、これを通して世界と結びついている、と石田氏は指摘する。

人間の身体やこころの働きを拡張することこそメディアの本質ととらえる認識を「身体拡張論」というらしいけれど、石田氏によれば、フロイトもまた、身体拡張論の立場にたっていたようだ(フロイトの時代にはまだ身体拡張論という理論はなかったらしいけれど)。聴覚を補完するために補聴器が登場し、視力については、眼鏡やカメラ・望遠鏡といった器具が人間の身体を補完している。フロイトにならうならば、現代のメディア端末はこころとよく似た構造をを有していて、人間の認知機能の限界を補ってくれる。

スマホやiPad・PCなどのメディア端末がわたし達人間の知覚や記憶といった身体的限界を拡張するはたらきとして機能しているととらえるならば、それらは単なる無機質な機械ではなく、わたし達のこころと似た構造で記憶を補強し、広く情報をとりこみ、人間の限界を拡張してくれる、心身の延長機能ということになる。おもしろいことにそれらのメディア端末では、人間同士の間主観的な交流がインターネット・テクノロジーという手段によってよりスムーズになった。

軽量端末であるスマホの登場以来、人々はつねにスマホをもち歩き、大量の写真を撮影してシェアするようになった。スマホが「こころの装置」としてわたし達の心身のはたらきを補強しているとすれば、わたし達が日常のあらゆる場面でその機器をもち歩き、電話としての用途以外でもフル活用し、脳みそだけでは記憶できなかったような微細な出来事まで記録してその小さな機器のなかにため込んでいるのも、ある意味、納得がいくかもしれない。

だとすると、3Dデジタル標本という作品もまた、自然や人間の〝ホンモノ性″とはかけはなれた技術という見方は妥当ではないかもしれない。それはつまり、外部化された「こころの装置」において、インターネットという共有された意識(あるいは無意識)の場をつうじて、人々が大切なものを記憶したり、再現、発展させることのできる経験の集積なのかもしれない。

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では、あらためて、生粋のフィールドワーカーが3Dデジタル標本をつくるということはどんな意味をもつのだろう。 鹿野氏は、デジタル標本の作製をはじめた経緯について、絶滅したと思われていたタイワンコオイムシを56年ぶりに沖縄で発見したことがきっかけであると話している。いつものように現場で調査をおこなっていた彼は、ある日、実に珍しい新種の を発見する。新種を発見したということは、博物館に標本として寄贈しなければならないことを意味する。せっかくの新種なのだから、生き物好きであればなおのこと、手元に置いておきたいと望むだろう。自分が発見した未知の生き物を、もっとゆっくり、長い間眺めていたいという欲求がわきあがってくる。それが、画像としての標本づくりのきっかけであったらしい。なにがいいたいかというと、デジタル標本作製のきっかけは、あくまでもフィールドワーカーとしての素朴な好奇心に依っていて、生き物好きの人間が愛着の結果として標本づくりをおこなうのと等しい行為ということだ。

写真家で著述家の大山顕は、SNSが普及し、スマホで人々が簡単に写真をとりはじめた現代社会において、「かわいがる」という行為は、「写真を撮る」ことに代表されるようになった、と述べている。スマートフォンの登場によって、今や写真を撮ることは一部の人たちの限定的な趣味趣向なのではなく、あらゆる一般の人々の日常的なおこないになった。SNSには猫の写真があふれている、と大山はいう。ペット、子ども、恋人―――わたし達は、愛着行動の結果として、写真を撮る。写真はデジタルデータとしてシェアされ、拡散される。鹿野氏が自然のなかで見つけた生き物を撮影することもまた、まさしく愛着行動のあらわれといえるだろう。これは、いわゆるIT技術者がデジタル生物標本をつくろうとする場合の動機と大きくちがう点ではないだろうか。

ひょっとすると、IT技術者であっても、フィールドワーカーであっても、より精緻な3Dデジタル画像を作製したいという願望はおなじかもしれない。だけれども、IT技術者にとって生物は、あくまでデジタル技術の開発という目的にたいする手段となる。それにたいして、フィールドワーカーにとっては、デジタル技術こそが手段だ。目的は生き物の実在性、その記録、保管にある。たとえば、複数の技術者がリアルな3Dデジタル標本の作製をめざすとしよう。このとき、すべての製作者がリアルさという同一の目標にむかっているように見える。だけれども、そのリアルの実態は、人によってまるでちがっている。なにをもってリアルと感じるか。リアルさとはあくまで、その人にとってのリアル、だ。リアルな自然とはなにか、風、音、におい、湿度といった無数に分解されるリアルさの要素をどう身体に刻み込んでいるか。自然への感受性、身体感覚というものは、これまでその人がこの世に生を受けてから、なにを経験し、なにを見て、なにを感じ、どのように生きてきたかによって、みなちがっている。人の数だけのリアルが、そこにはある。

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もうひとつ別の話をしてみよう。実は社会学者の宮台真司氏が、テクノロジーと身体性の関係について、おもしろいことを言っていた。―――テクノロジーに技術を実装する場合、技術者自身の身体性が問題になる、というのだ。これは、どういうことだろう。

宮台氏は、ゲーム企業のCEOジョン・ハンケ氏の考えを紹介しながら、仮想現実空間のメタバースについて、良いメタバースと悪いメタバースがある、と話す。良いメタバースとはなにか――それは、現実との出会いを触媒するような、あくまで現実へとつながり拡張していくテクノロジーをさすという。それにたいして、現実から人々をひきはなして閉じ込めてしまうようなメタバースは、悪いメタバースの典型といえる。そしてこのとき、現実へとつながっていくような良いテクノロジーを開発するためには、技術者の身体性が問われてくる。なぜなら、身体性の欠如した技術者は、自身がたずさわるデジタル技術が現実世界へつながるものなのか、閉ざされていくものかが判別できない。だからこそ、技術を開発する技術者の身体性が問われている、と宮台氏はいう。

フィールドワーカーが3Dデジタル標本をつくるということ――フィールドワーカーである鹿野氏が世界に先駆けて3Dデジタル標本を開発したことは、自然への没入体験の延長線上に位置していて、生き物への愛着の結果として生まれた。そして、フィールドワーカーとして培われたその身体性こそが、ジョン・ハンケ氏や宮台氏のいうように、これからのデジタル開発において重要なカギとなるのではないだろうか。どんな技術をつくるのか、どんな風につかうのか、そこには実は身体性、あるいは野生性とでもいうべき人間の根源的な能力が問われている。技術の進歩は生活だけでなく、大衆の意識や無意識にまで変容をもたらしていく。人間がもともと内包している可能性の転化として、それらが人々の生き方によい循環をもたらしていくために、身体性と技術の関係が問われている。その広がりというものを、目を凝らして眺めていく。

≪参考文献≫

石田英敬 『大人のためのメディア論講義』 (株)筑摩書房 2016

大山顕 『新写真論 スマホと顔』 (株)ゲンロン 2020

宮台真司×おおたとしまさ 対談中編 集英社オンライン 2022.08.18

http://shueisha.online/culture/42520